正しいとはなにか。
最近僕はこの言葉についてふと考えることがよくある。
人生というのは選択の連続である。
誰もがこれまで生きてきた自分の人生の中で数多くの選択を強いられ、そのうえで自分が最も正しいと思う選択・決断・決定をしてきたであろう。
いや、自分ではもっとより良い選択があると感じながらも、違う決断をしてきてしまった人もいるかもしれない。
では社会的に著名人、高収入者、成功者などと呼ばれる彼らは、より多くの正しい選択をしてきたため自分の夢の実現は果たし、そのような地位についたのか。
また私のこれまでの人生の中で下してきた数多くの決断は正しい選択であったのか。
何度考えても疑念を感じてしまう。
僕は今日のトレーニング中、一人の新1年生に厳しく言う場面があった。その子は何度も何度もミスをしたにも関わらず周りもそれに何も言わない。そんな緩い雰囲気の練習になっている環境に危機感を感じた僕は強い言葉を伝えた。
しかしこれは正しい選択だったのか。
後になってふと思った。たしかに少しピリついた雰囲気になり、その日の練習強度もあがったと思う。
しかしまだ新入生の子に3年生である自分が強く言葉を言い放つのは本当に正しいことであったのか。
緩い雰囲気を締めようと強い言葉を伝えたことは事実だが、そのミスのせいで失点したことに苛立ちを感じたのも事実だ。僕はその苛立ちをぶつけてしまったのではないか。
では、あの緩い雰囲気に何も言わずにそのままなんとなく練習を続け、自分だけが頑張ればよかったのか。
これまで私は常に最善であると思う選択をしてきたつもりだ。
だが、今考えてもやっぱり何が正しかったのかわからない。
これは一つの例だが、このような選択を迫られることは私がこれまで生きてきて数多くあった。
自分の発する言葉についてだけでなく、時間の使い方、今日するべきこと、もっといえば今すべきこと。あの時の行動は正しかったか。
考えたらキリがないくらい人生は選択の連続である。
前回のブログで書いたように、僕は昨年の12月に手術をしてようやく4ヶ月が経とうとしている。徐々にサッカーもできるようになってきて、完全復帰までもそう遠くはない。早く試合がしたい一心で全力で過ごした4ヶ月だったが、果たしてしっかりと正しい道を歩んでこれたのか。もっともっといい時間を過ごせたのではないだろうか。逆に慌てすぎであり、もっとゆっくりしっかり治すべきだったのか。これでまた再発したらと思うと、そう考えてしまうこともある。
自分ではできる限りのやるべきことに時間を費やしてきたつもりだが、成功者からすればただ時間を浪費しただけと言われてしまうかもしれない。
やっぱり「正しい」について私はまだ無理解である。
結局今するこの決断が正しいかなんて誰にも分からない。
しかし1つ言えるのは、後悔のない選択をすること。
正しい道を行こうと模索するのではなく、自分が考え選び決断したその答えを信じ、正しい道にしていくこと。
その結果こそが最も重要であり、「正しい」の理解者と言えるのではないだろうか。
2年後、3年後、はたまた10年後の私の未来に
「自分は今までしかるべき選択をし、正しい道を歩んでこれた。」と
自信を持って言えるように。
さぁ今日も明日も明後日もその次の日も、
自分を信じて生きていこうではないか。
自分の中の正しいを追い求めて。