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部員ブログ

2022.02.14
中川 豪
超越する「何か」

大学でサッカーをやっている人が一度は考えたことがあるかもしれない、「なぜ大学でもサッカーを続けているのか」ということ。サッカーだけに限らず、他のスポーツでも同じことが問える。プロになりたい、サッカーが好きだから、など様々な理由があるはずだろう。

私は成人式で久しぶりに中学校の友達と会い、自分の今を知らない何人かの友達に「豪ってまだサッカー続けてるの?」と聞かれた。

当然「もちろん続けてるよ」と答えつつ、そんなの聞かなくても続けてるに決まってるだろ、と少し心の中で思ってしまったりする。

しかし中学校の友達からしたら、大学に入ってまで体育会で部活を続けるということ自体が珍しいことなのかもしれない、と反応からしてそう感じた。

ここまで私は常に恵まれた環境でサッカーをしてきた。上手い選手が周りにたくさんいて、良い指導者にもたくさん巡り会ってきた。また、応援してくれる両親や兄弟、友達、母校の監督・コーチやクラブチームの大人などがたくさんいた。

一方、それでもサッカーというスポーツは大抵のことが上手くいかないのである。自分より上の存在などは数え切れないほどの選手がいて、苦しみや挫折などを死ぬほど経験する。

それでいてなぜサッカーを続けるのか。

それは「私の人生=サッカー」だからであり、「自分の存在価値=サッカー」だという軸があるからである。自分からサッカーという存在が切り離された時、自分の存在価値が薄くなってしまうのではないかというほどサッカーに熱狂している。

だがここで矛盾するようなことを言うが、サッカーは人生の一部でしかない。サッカーを続けようが辞めようが人生は続くわけだし、サッカーを続けている人が別に偉いわけではない。社会に出てサッカーに全くの興味のない人に出会った時、その人にとってサッカーという存在は何の価値もないのである。また、生涯80年と考えるならサッカー以外のものに触れる時間が多くなるのも必然である。

しかし、そのような苦しみや挫折などを超越する「何か」がサッカーには潜んでいる。単純に好きとか、勝ちたいとか、そういうわかりやすい物差しでは計れないものが存在しているわけである。それは言語化できるものでもないし、表現できるものでもない。人それぞれ、サッカーを大学で続けている意味が存在しているのだ。

1年生の時、担当のコーチがよく練習後のミーティングで「大学でサッカーを続けている意味を考えろ」と話していた。その時は単純にサッカーが好きだからでしょ、と思っていた。しかし、その問いの本質が今になってようやく分かってきた気がする。上手くいかないことが大半のサッカーというスポーツにおいて、十数年続けてきた意味というのは自分の体と心だけが知る「何か」なのであり、私にとってその「何か」というのは言語化することも表現することもできない、体と心にめぐり回る幸せなのである。

話は変わるが、今年はより結果にフォーカスした年にしたいと思う。まだこの大学で自分自身なにも結果を残せていない。結果に囚われてしまうのは過程を疎かにしがちで良くないのかもしれないが、将来の自分に繋がる結果というものも、今年は追い求めていきたい。

明日は専松のクール男、鈴木浩大のブログだ。浩大らしいブログを期待している。

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