アイリーグ最終節の中央大学戦
試合終了の笛と同時に多くの先輩たちが引退ブログで綴っていた、後悔、不完全燃焼。それが少しだけ理解できた気がした。
試合に出る出ない、勝った負けたに関係なかったと思う。
他の四年生がなにをどう感じたのかはわからない。
それでも俺は大学サッカーが自分の手から離れていく現実に涙を堪えることに必死だった。
きっとダラダラ長い文章になってしまうので、僕が伝えたいことを最初に。
もう一度大学を選ぶことができるなら、もしかしたら専修大学は選ばないかもしれない、、、。
そんなことはなく、必ずもう一度専修大学サッカー部を選ぶと思う。
人間科学部社会学科4年生の小森匠真(こもたく)です。
とうとうブログを書く最後の日を迎えてしまいました。
入部したての頃、おれが緑色か〜って思ったけど、今じゃ大好きな色。絶妙にユニフォームのズボンが短いのがお気に入りだったり。
僕がグラウンドで「こもたく」と呼ばれることはもうないんだろうなって思うと悲しいですね。ハルさんにも東君にもマネさんにもいつの間にか呼んでもらえて、幸せ者だね!
引退ブログを書く中でパッとこれまでのサッカー人生を振り返りました。うん、俺はサッカーにおいて凡人だったなって。中学で辞めちゃうかなって思ってたらまさか高校まで続けて。高校でさすがに辞めるだろうなって思ったら大学でも続けて。自分にしかない武器があるのにも関わらず他の選手の持ってる武器をいつも憧れながら見ててこんなふうに俺もサッカーしたいなって。そんなレベルの選手でもなんとか続けられたよってことで。
サッカー上手い人の話も良いけどたまには凡人の話も良いと思うんだよね!
タイセイのブログも長かったけどそれに負けないぐらい長いのでよろしくね!
小学生時代
一言で表現するなら「楽しかった」だね。
水泳教室で全ての級に合格しないとサッカーをやらせないというスパルタ教育を乗り越えて3年生から始めたサッカー。どのポジションで試合に出ても楽しかったな〜って。走りの練習は嫌だった記憶はあるけど練習がつまらないってことはなかったし練習の後でも公園に行って多いときは40人ぐらいでサッカーをしてたな。チームの強さはそこそこ強いぐらいだったと思います。周りのメンバーに不満を感じたことはなかったし。唯一あるとしたら開がサッカー上手すぎたね。アメリカで今何をしているのかとても気になりますが。
開と力人、サッカーに出会わせてくれてありがとう。
小6の最後の方に腕を骨折しました。
スケートに初めて行ってひっくり返って折れました。
なんとか最後の方の試合に出たいと治りかけのまま試合に出ました。
テーピングやらをめちゃくちゃ巻いて出たファーストプレー
保護者の頑張れーーという歓声の中、相手とぶつかり大転倒。
歓声が心配に変わるほどの悲鳴が聞こえてきたが再発はせず俺も安心した。
最後の中部地区の大会
自分が相手にPKを与えてしまい、負けたこと。
仲間が必死に審判にシュミレーションを主張してるのを見て、試合中なのに大泣きしながら残りの時間をプレーした。
中学時代
中学は「きつかった」だな。
練習時間の3時間まるまる走ったこともありました。なんなら1ヶ月ぐらいそんな練習だった。ボールを1つしまい忘れると10周走った。台風の前日、体育倉庫の屋根の上にボールを乗っけて隠したら次の日に全部落ちてた。グラウンドを2日間かけて100周ぐらいした。
霊園に早朝から階段ダッシュをしに行った。お墓を朝から走るという今思うとイカれたメニューだったと思う。
身長は180cmあり完全に天狗になってました。
ヘディングはだいたい勝てる。センターバックなのにチーム内での得点ランキングにも上位にいたりと。
中学で初めてもっと上のレベルでやりたいと素直に思いました。だからこそサッカーが強い高校に進学すると決めました。ここからサッカーが進路における絶対条件になるとは思いもしませんでしたが。
最後の大会
自分がコーナーキックの処理をミスってオウンゴールをして負けた。帰りのバスで1人で泣いた。それでも、高校でやれる自信があった。
入学後、伸び切った鼻をへし折られるとは知らずに、期待を膨らませて高校へ
高校時代
間違いなく俺のサッカー人生の「原点」だと思う。
素晴らしい指導者、選手と出会えた。栃木県内の有名選手が多く集まり、小学生の頃から県内で名前を聞いたことがある選手ばっかりだった。
周りのレベルは高く、1番下からのスタートだった。りゅーせーくんをはじめとした田原組、慶太郎、大樹、岩敬などの良い先輩に恵まれて朝練毎日行ってなんとか3年生のときにはAに上がれて、選手権でも点を決めたり。
ただ高校三年生の時は苦しかった
夏休みに後十字靱帯を怪我した
しばらくサッカーができなかった。
みんながユニフォームに着替えて教室からグラウンドに向かって行くのを複雑な思いで手を振りながら見ていた。
他のメンバーみたいに推薦がもらえるかは分からない中で勉強もしなくちゃいけなくてサッカーができない。
人生でもっともつまらなくて苦しい時間を過ごした。
それでも少しずつ復帰していってなんとか勉強もサッカーもやり切った。
今思うと自分たちの代は上手くはなかった。岩崎さんにそう言われた。それでも栃木県栃木市生まれの栃木優太という自分のミスで失点しても自分が1番チームを盛り上げる鬼のメンタリティと自信を兼ね備えたキャプテンのおかげで選手県準優勝までいけた。
彼は大学の学費を稼ぐために某ビッ◯モー◯ーで社員として働きバイトを何個も掛け持ちし、今度フィリピン大学に交換留学に行くらしいというバケモンみたいな行動力と遊びまくる人生を過ごしている。彼の大学生活は本当に充実していて1週間だけ体験してみたいほど。栃木応援してるよ!
栃木も努力の男かもしれないが俺も部内で1番を争うぐらい練習した。1番最初にグラウンドに行き1番最後までグラウンドにいた。よく大樹と勝負していた気がする。卒業アルバムの自由にメッセージを書くところには「努力」という言葉がみんなからたくさん書かれていて嬉しかった。
しみちゃんも写真撮ってくれたりいろいろありがとね!
今年で8年目だけどこれからも。
最後の選手権
因縁の相手、矢板中央との決勝
PKで負けた。高校としても3度目の決勝。またも全国には行けなかった。膝の怪我もあり、今度はグラウンドではなく、ベンチで引退を迎えた。
そして大学でも自然とサッカーをやりたいと思った。
高校で底辺を経験したからこれ以上に下はないだろうという安直な考えのためプロになってやるという強い意志はなかった。
ただ全国大会に出るようなやつ、プロになるやつ、どんなレベルなのかを肌で感じみたかった。そいつらと4年間過ごしたら自分はどれだけ成長できるのか。そこだけだった。
ただセレクションがあるところは嫌だなってセレクションがない大学を何個かピックアップした。
そして自分の頭の出来と相談して指定校で専修大学人間科学部社会学科に行くことが決まった。当時はこれまでの人生の中で1番嬉しかったことを覚えている。
しかし実際入部したら社学はとても少なく
先輩はレイくん、まゆさんだけで今は俺と守屋だけの寂しい状況が続いているとは当時思いもしませんでした。
大学1年生。
「圧倒された」ですね。
今でも覚えている。はじめてグラウンドの坂を降りてグラウンドに入った瞬間を。Jユースや名門校の練習着を纏ったメンバーが、まるでブランドのように練習着を見せつけぶつかりあっていたことを。やべ、俺やっていけないかもなーって素直に思いました。
なんか四年生すげー体デカくてめちゃくちゃピリピリしてて、とある先輩が外周してる時に一年生がライン際で固まって話をしてたら「邪魔だから引っ込んでろ」と言われた。彼は今どうしてるのだろうか、、、。
朝練は7:7から始まるシュートゲーム。
35:35を走ったことも。
本当に最初の方は、グラウンドの外の激狭なスペースでずっと対人だったり、ミニゲームばっかりだったなー。
ここで健ちゃんと仲良くなれたからラッキーだったね!
俺とリキでミニゴールを運んでいたらセーヤの頭に落として脳震盪になった。その時は全然仲良くなくてめちゃくちゃきまづかった。
ただ社会人リーグは3部から2部に昇格出来て、なんかすげー楽しかった思い出があったり。
大学2年生。
「慣れ」ですね。
新年早々ガヤさんがサッカーをいろいろ教えてくれました。
素直に楽しかったし、サッカーがとても上手くなった気がしました。社会人リーグで昇格に向けて頑張ってたけどエブリサに勝てなかったのは悔しいね。あんなにみんなで分析したりセットプレーデザインしたから勝てると思ったけど、社会人舐めちゃいかんかったね。
サッカーはなんとなく楽しいけどこのまま残り2年過ごしたらおもんないなって思いました。なんかいまいち充実感ないし。何かを変えようと思いました。
うん。まず見た目からやろ!っていうミーハーでまたも安直な考えからミスターブラザーズカットクラブに死ぬほどビビりながら行きました。超怖くてやっぱ行くの辞めようかなって何回も入り口で考えたけど行ってよかったです!
髪がスキンフェードになりました。
大学3年生。
「ええやんけ!」ってかんじですね。
一年生の頃から憧れてたアイリーグ1部にやっと出れました。全国大会に出ると目標を掲げていた矢先、アイリーグ7連敗。得失点マナイス25。相手チームにアップなしで今日は勝てるよって言われたこと。野球の点数?ってぐらいボコられたこともありました。
それでも、最後の方に連勝して奇跡の残留をしたこと。
特に思い出に残ってるのは日体戦かな〜。
残留戦前夜にハルトとありえないぐらい大喧嘩をしたこともあったり。倉くんと健ちゃんに慰められて大泣きしながら電話したな〜って。
ハルト
陰ながら応援してるよ!
サッカー上手いんだから自信持ってがんばれ!
白人美女と付き合えたら報告する話、忘れてないよ^ ^
この年はとにかく楽しかったです。
当時の四年生が本当にみんな良い人達で
リョート君はいつも誰かのモノマネして、シュート君には「たくま口開いてるぞ」と毎日言われ、倉君に「たくま萎えんなよ」って怒られて、太一はヒトラー超えるほどの独裁政権を発揮して。数え出したらキリがありませんが本当に楽しかったです。
セーヤも太陽もいたしな、林も、、。
サッカーが楽しいことに加えていろいろなことをしました。バイト先のお客様のおかげで人脈広がりました。マスターズの水泳選手だったり某有名サッカー日本代表選手のパーソナルトレーナーと出会えたりと。
そして3年生のこもたくと言えば登山ではないでしょうか。朝4時から山を登って山頂で朝ご飯食べたり、夜の山を登って花火を見に行ったり。以前と比べて友達と遊ぶ時間を増やしたりとめちゃくちゃ毎日おもろかったです。
そしてゼミで怪物と出会いました
彼は僕の人生を変えてくれました
本当にありがとう
犬臭いしハゲてるしゲ◯だけど
もう1人わたしの人生観を変えてくれた人
仕事の合間に僕のことを試合会場に送り迎えしてくれたり、美味しいご飯を食べさせてくれ、朝3時に家に迎え来て山に連れていってくれて。
ありがとうございます。
あなたのおかげで遊びのある人生の意味がわかりました。
大学4年生。
ある意味「濃い」一年でした。
えーー香港と韓国と2回も海外旅行行けていえーい!
冗談はさておき
まず就活やね。
結果として自分の納得する企業様から内定をいただけました。
素晴らしくて本当に良い同期と出会えました。
彼らは僕のことをこれまで以上に遊びに連れ出し楽しませてくれそうです。
ただ就活とサッカーの両立はできなかったのが事実です。
俺は性格上絶対にどっちつかずになり曖昧で納得できない答えを導き出すことが見えていました。そんな覚悟では行きたい会社にいけないとも思っていたし。
自分は就職先を選択肢が1つだけで「選ばされる」のではなく、いくつかの選択肢の中から自分で考えてしっかりと「選びたかった。」そして就活を本気でやった。
しかし同時にAチームで関東リーグに出場する夢を捨てた。加えてどのカテゴリーに割り振られてもどんなに試合に出れなくても文句を言わないことを自分と約束した。おそらく紅白戦でも練習試合でもどの立ち位置でも文句は言わずに受け入れていたと思う。ちなみに俺が今年出た試合のディフェンスラインはミキ、宮崎、俺、エイゴの記憶しかない。彼らの今後の成長が楽しみだ。人生で初めて犠牲と覚悟の意味がわかった。
サッカーのモチベーションは無くなり練習も週に3回ほどしか行かなくなった。知り合いがハイアルチで働いていたので隙間時間によくトレーニングには行っていたから体力は大丈夫だと勝手に思い込んでいた。ほのやん紹介ありがとう^ ^
そんな時だった。山口ソナタという人物から謎のグループが作られ東君と話をしてくださいという恐怖のLINEがきた。
東君に忙しいのはわかるがグラウンドに来い。次こういうことがあったら俺が責任を持って辞めさせると言われた。
三年生の頃からアイリーグのボロ負け話したり、こもたくと呼んでくれたり距離感が近かった。だからこそ申し訳ない気持ちでいっぱいになったし期待を裏切ってはいけないとも思った。それからはしっかりとサッカーとも向き合った。
ただーー、この1年間そうとうきつかったぞ。夏にやる3人のパスコン。あれはもう今後一生やりたくないね。
毎日走る10秒20秒、35秒、5:5、3:3、謎の足トレ思い出したくないね笑笑
変な話Aチームも走ってA2も走っててグラウンドでサッカーしてる人いない時間あったもんね。何回も目を擦って、ほっぺを引っ張ったよ。なんてね笑
少し真面目な話を
最後の1年、なにを目標にやろうか考えました。
他の四年生だったらきっとプロになるとかAチームで試合に絡むとかだったと思うのね、わからないけどね。
俺の目標はすごく小さいけど、両親にプレーしている姿を見せる。考えるも何もこれしかなかったんだよね。
入部当初は出場機会も限られてたし、グラウンドが実家から遠いこともあって中々機会がなかったし。
9月の早稲田大学との試合
父親には去年の大雨の中央大学とのアイリーグ見せれてたけど、初めて母親にちゃんと大学サッカーしてるところ見せれて、試合中ながら少しうるっときたよね。
そこからは
誰かのためにやるサッカーが終わって
自分のためにやるサッカーが始まりました
しかし目標を達成してしまった俺は大学サッカーをやり切った感があった。いや、やり切ったのだと思う。練習中によく口にしていた気がする。「俺の引退試合はこの前の早稲田だったから、もう満足した」
それでも残り一か月何度も自分に言い聞かせていた
おいおい大丈夫か俺?もっとやれるだろ?最後だろ?って
それでもやっぱり俺のモチベーションは下がることも上がることもない、つまらなーい状態だった。
そう、実は俺って誰かのために頑張るのがモチベーションってことに気付かされました。
よーく思い返せば
東君にどんだけボロクソ言われても、良いプレーした時の「そうだ!こもたく!」この一言でなんかめちゃくちゃ嬉しくなったもん!俺って単純だね^ ^
さぁ少しだけ話を最初に戻そうか
不完全燃焼で終わってしまいましたね。
別に取り組み姿勢に後悔があったとかじゃないんですよね。たしかに平日でも夜遅くまで地元の友達やらと遊んだし、もう少しコンディションを考えた方がいいのかなって時はあったけれども。
でも別に体力的にそこまでキツくはなかったしなんならもっと遊んじゃう?ぐらいでした。海外旅行も行けたし満足でした!
ミスターブラザーズが教えてくれました。遊びも仕事も合格点狙いじゃなくて100点狙わないとって。
うん、俺もそれやりたい!!!って。
不完全燃焼の理由。
正直、わかりません。最初の方はラスト1年、組織として大きく体制が変わったから不満でもあったのかなって。
だって、組織が変わるからしょうがないっていうけど、我々四年生にとっては学生スポーツ最後の1年なんだよって。
ただ、そんなこと正直どうでもよくなってました。
今、考え続けてもわからないと思います。
数年後に高校サッカーを見ながら考えたいと思います。
同期
引退してから関東リーグの応援、卒論が忙しすぎて行けなかったのはごめんなさい。プレーオフは行きます。
みんなと4年間サッカーができたことは誇りだし今後ずっと自慢していくと思う。今でもやっぱりみんなのプレー見てるとほんとにサッカー上手いなって思うもん!
これからプロになる人、夢を追いかけ続ける人、社会人として働いて行く人。どんなみんなも俺にとって自慢の仲間です。
みんなのこれからに幸あれ。
少しだけ個別に
トモキへ
初めて練習参加した日、「俺も今日が初めてなんだ!」そのトモキの一言今でも覚えているしめちゃくちゃ安心しました。俺は自分のことで本当に精一杯だったのに何故か少しだけ、トモキ大丈夫かな?って心配する余裕があった。そしてトモキがいるから俺も続けようと思った。多分トモキも俺に対して同じことを思ってたと思う。ほんとにありがとう。これからも。
岡
カイセイから岡ってやつ成徳だから仲良くなれるよって言われてどんな奴が来るのかと思ったら作業着来たゴリラが来た。なんてね。なんだかいつも落ち着かなくて、挙げ句の果てに今年は日焼け止めとハンドクリームを間違って顔がテカテカ。岡とは毎日チャリで一緒に帰ってなんかいろんな話したわ。今後もよろしく。
後輩へ
別にあなた方がどんだけ練習に真面目に打ち込もうがサボって怠けてもはたまた退部しても誰も興味はないしどうでもいいことです。今きっと周りの人がいっぱい部から去っていって俺も辞めようかなって人がいるんじゃないかと。
でもさ、せっかくサッカー部にいるんだったらさ練習は毎日行ってみようぜ。いいじゃん別に走りキツいけど文句ぶつぶつ言いながらみんなで走れば。練習サボって行かないぐらいならこっそりコーンの内側走れば。俺はそれでいいと思うぜ。大学でサッカー辞めちゃうのもったいないよ。それに今辞めたら、これから社会人になってそういう場面に出会したらどうすんの?好きなサッカーで逃げて好きでもない仕事で頑張れるわけないぜ。知らないけど。
就活のためとかもいいけど、好きで本気でサッカー続けてる方がかっこいいぞ。
後輩のみんなに幸あれ。
指導をしてくださった指導者の皆様へ
私がサッカーをやってきて良かったと思うことは皆様と出会えたことです。小学校から大学まで本当に心の底から素晴らしい指導者に出会えたと思ってます。特に高校時代は岩崎さん、前田先生、れいさん、成島先生、中山さんと素晴らしいスタッフに出会えました。本当にお世話になりました。私の恵まれているところは人との出会いです。
家族へ
小学生の頃から大学までなに不自由なくサッカーやらせてくれてありがとうございます。なんなら、テニス、水泳、体操やったりいろいろやらせてくれて恵まれてるなと思ってます。特に大学生になっては家賃だったり学費、部費ってすごく大きなお金が動いたはずなのに何一つ文句を言わないで支援してくれたこと、本当に感謝してます。当たり前じゃないんだなってこの歳になって実感しました。
だけどね、おれはこんなかしこまったことを伝えたいわけじゃないんだよね。いや、伝えなくちゃいけないのは分かってるんだけどさ。思ってること言った方がいいでしょう!ってことで。
もう少し顔はイケメンが良かったけど、高身長ってだけで幸せものだね!禿げてもバレにくいし笑。きっと興味の対象がはっきりしてて、興味ないことには本当に興味ないのは小森家の遺伝だよね。所々承認欲求強めなのも。
反抗期は一度もなかったし自分の部屋にこもってゲームすることもなく、こたつに入って180超えた男3人とお母さんで映画見たりするのが俺はけっこう好きだったよ。
僕が実家に帰るとだいたい決まった話題で盛り上がります。
高校時代の学生証がアンパンマンなこと
俺のテストの成績があまりにも悪すぎた話
共通テストでなぜか1500円ぐらい多く支払って成績通知書を発送するオプションをつけたのにコロナの濃厚接触者で受けれず0点の成績表が家に届いたこと。
お父さんへ
熱帯魚の水槽の掃除、餌やりいつもありがとうございます。俺が小学生の頃に飼いたいと言って飼い始めた彼ら。
当時は色鮮やかで綺麗だったはずなのに今はグッピーの一色だけが生き残り永遠に繁殖を続けて約10年。体のサイズ以外模様にも違いがない60匹が水槽で餌を欲しそうに泳いでいますね。小学生の頃の俺が見たらきっと泣きます。実家帰ったら掃除します。
小さい頃から口酸っぱく言われてきた気がします。
「サッカーにのめり込みすぎないように」
サッカー選手になれなかったとき、お前は何ができるの?あれ俺この後の進路どうしたらいんだっけ?行く場所ないんだけど状態にならないようにと。
これです。俺がものすごく現実的であまり夢を見なくなった要因は。全然良かったと思ってるけどね。
高校時代今でも覚えてます
試合のリュックを片付けろと言われて片付けないで
お父さんに刃向かったことを
1番やりたくてしょうがないスポーツを我慢してきたお父さんに「部活やってないからしんどさがわからないんでしょ」と言ってしまったこと。反省してるし忘れないけど、お父さんはそんなことどうでも良いと言うと思います。
超えられないけど、追いつけるぐらいにはなりたいぜ!
お母さんへ
とんでもなく迷惑をかけたと思っています。特に中学、高校と進路のことでは、、。少しは安心した?家での様子見たら安心はできんよな。俺はこれからも家で歌い1人でわけのわからんことを言ってご飯をいっぱい食べると思います。ほっといてください。
ある日に言ってくれたよね
俺が膝の怪我をしながら出た選手権で、点を決めた瞬間にこれまでの送迎とか食事の用意とか全てが報われた気がしたって。だから大学サッカーは好きにやっていいし、見に行けたら行くぐらいでいいよって。
そんなわけないでしょ?1番見たがってたの知ってたよ。
これだけ色々やってもらっといてこれで終われるわけないじゃん。だって子どもだよあなたの。だから早稲田の試合見せれたことはもう俺のサッカー人生での恩返しなのよ。ひとまずのね。
選手権で全国に出る夢、兄弟で叶えられなくてすごく申し訳ないなと思ってます。ふと思いました。2週間前に弟の高校がベスト8で負けた瞬間、弟の高校サッカーが終わったのではなくて小森家にとっての高校サッカーが終わったんだと。ただ弟の大学サッカーに期待しようじゃないか。
どんな形になるかはわからないけど、少しずつ恩返しはしなくちゃいけないとなと思ってます。
弟へ
最近俺がダル絡みしても相手してくんないのつまらないぞ。まぁお勉強忙しいしね。
身長は俺が勝っている。ファッションセンスも。ただ勉強、サッカーにおいては俺の3歩ぐらい先に行ってるな。いや、お前は選手権0得点だけど俺は1点決めてるぞ。なんてね。
お前が行きたい大学は大学サッカーの全てが詰まってると思う。必ず受かって行け、行けるから。俺を越えたければだけど。
このブログを書き終えてしまうともう自分が専修大学サッカー部の一員じゃなくなることがどんだけ寂しいことか。
最近とある文章を見つけました。
神様がお手伝いしてくれるのは人間関係の「出会い」の部分だけ。その後の関係を良くするのも悪くするのもそれは自分次第だと。
人間関係は本当にご縁だと思っております。
この専修大学サッカー部をもう一度選ぶ理由。
練習は朝早かった。何回もサボりたくなった。試合にも満足するほど出れなかった。OFFも少なかった。理不尽なことで怒られたり走らされたりもした。何回も辞めようと思った。
それでも
コーチ、先輩、後輩、マネさん、なんと言っても「同期」
みんなとの出会いがあったから。
僕がサッカーを始めた理由もそうでした。
家が1番近い友達が偶然サッカーをやっていたから。
たまたまサッカーがそこにあったから。
残念なことに今後、一度も会えない人も出てくると思います。連絡くれれば間違いなく会いに行くので!
それでも新しい人との出会い、巡り合わせに期待しながらめちゃくちゃ遊んで働いて時には落ち込みながらも「遊び」のある人生を生きていこうかなって思っております。
伝統と歴史ある名門「専修大学体育会サッカー部」で過ごした4年間。
私の宝物です。
11/23プレーオフ
VS山梨学院大学
今シーズン1番のビッグマッチです。熱い応援よろしくお願いします!
4年間お世話になりました。
こもたく