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部員ブログ

2024.11.18
辰巳大聖
17年間の集大聖

平素よりお世話になっております。
経済学部現代経済学科4年の辰巳大聖と申します。
冒頭を慶応ボーイの真似をしたら素晴らしい文章が書けると思っていたのですが、案の定そんな頭脳は持ち得ていなかったのでここから先は期待しないでいただけると幸いです。

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2024,10/20(日)中央大学でのアウェイ戦。
引き分け以上で引退+残留が決まる大事な1戦。
試合終了の笛が鳴り、スコアは2-2。
17年間続けてきたサッカー人生が終了した。
しかし、その時私はベンチにいた。さらに言うと、ラストシーズンの公式戦出場時間は0分。
待ち望んでいた引退のはずなのに全く喜べない、嬉しくない、モヤモヤする。
その日の夜、引退が決まったA2の4年で打ち上げみたいな形で飲みに行った。
行ったら行ったでめちゃくちゃ楽しかったが、本音を言うと行きたくなかった。
「試合出てないし、しかも勝ってないし、なんやねん打ち上げって」って思ってた。(泰治、率先して予約してくれてありがとう♡)
腑に落ちないこの気持ちを整理することは不可能だと思い、私は「引退ライフを謳歌していれば忘れるっしょ!」みたいな感じで片づけることにした。

それからなんやかんやで引退から1か月弱が経過したが、モヤモヤしている気持ちは全く消えていない。むしろマシマシ。
5歳から17年間続けてきた大好きなサッカーの終わり方がこれでいいはずがない。
“こんな終わり方なら大学サッカーなんてやらない方がよかった。”
“この4年間は何の意味もなかったのか。”
“あー、バイトたくさんして旅行とかしていた方が有意義だったかもな。”
ネガティブな思考が自分の脳内を駆け巡った。

そういえばおれってなんでサッカー始めたんだっけ。
ここからは、1)今までのサッカー人生の振り返り。2)17年間、特に最後の4年間で何を学び、得ることができたのか。の2本立てでお送りしたい。

1)今までのサッカー人生の振り返り。
ここからは幼小中高大と振り返るため長くなります。(興味ない人は流し見してください。)
サッカーを始めたのは5歳のころ。
姉がサッカーをしていた影響もあったが、1番の要因は結人。(4年/國學院大學/ロングスロー持ちCB)《馴れ初めは幼稚園の時、立ちション中に隣になり「友達になろう」の一言。なお、どちらから言ったかは不明。》
結人が地元のサッカー少年団、ミキFCに誘ってくれたことでおれのサッカー人生はスタートした。
体格も運動神経もそこそこ良かったため、割とすぐ上達した。
加えて、人前に出ることも得意なタイプだったためキャプテンを任されていた。
この時、個人としては小学3,4年生の時に市が主催するリフティング大会で優勝することを目標にたくさん練習していたのを覚えている。(使ってはいけない小学校の校庭で)
結果として、3年時は5位、4年次は3位だった。
優勝には届かなかったものの、初めて真剣に努力をした時期だったと思う。
また、チームとしては小学2,3年時共に市大会準優勝とシルバーコレクターだった。
最強の代と言われていただけに優勝したかったな。
特に、私がPKを外して負けた時はさすがに悔しすぎて泣いた。
サッカーで初めて涙を流した時だった、懐かしい。
その後、創平、怜と主力メンバーがさらなる高みを目指して移籍していったことに感化され、私も移籍することを決意した。

小学4年時の夏過ぎ、横浜市の泉区にあるJFC FUTUROというチームのセレクションを受け、入団した。
まあ、今思い返すと過酷だったと感じる、色々な意味で。
過酷だと感じた点は主に2点。
1点目は、チームのエースストライカーである梶山はるま君にこれでもかというほどボコボコにいじめられたことだ。笑
これがまさにアウェイの洗礼かということを小学4年生ながら思い知らされた。
でも、上手いし強すぎて何も言えずペコペコしていた。(早くも社会においての上手い立ち回りを覚えた瞬間。)
このチームでは個人的に麟(4年/神奈川大学)と崇悟(4年/札幌大学)と仲良くしていたイメージがある、片思いかもしれないが。
2点目は、小学生のサッカーではあまり考えられない罰走などによる走り込みだ。
グランドに着くと「○○コーチこんにちは!」と大きな声で挨拶から始まる。
何ならグランド付近にいる親御さんたちにあいさつ回りをする。
そして、その声が小さくて届いていないなどの理由で走り確定。(鈴木コーチの「ダッシュ行こう」の一言はまじで恐怖。)
他にも、練習に集中していないや練習中のくだらない喧嘩などで走り。
小学生のサッカーは基本エンジョイ!って感じなのにすごく厳しい環境だった。
鈴木コーチや石井コーチにはすこぶるビビってたため、練習や試合が戸倉コーチだと分かった時はめちゃくちゃ喜んでた。笑
本当に懐かしい、今となっては戻りたいな。
しかし、挨拶などを含めた礼儀をこの年代でしっかりと学べたことはとても大きかったと思う。
指導者の皆様、自分たちのために厳しくご指導いただき本当にありがとうございました。
少しふざけた話をしてしまったが、この厳しい環境に小学4年から6年までの約3年間身を置けたことで個人としてレベルアップできたし、素晴らしい経験を積むことができた。
特に、小学6年時に県を制覇して全少でベスト8になれたことは忘れることのない素晴らしい思い出。
泰治もブログに書いてくれていたけど、泰治と港斗とは小学生年代で何度か試合したね。
意図せずに同じ大学の部員として再会できたこと、本当に嬉しく思う。
今思い返すと、先輩、同期、後輩には当たり前のようにプロサッカー選手がいて、そのような環境でプレーできたことは非常に恵まれていたと感じている。
素晴らしいクラブを見つけてセレクションを受けさせてくれた両親には本当に感謝しかない。
加えて、サッカースクールなども探してくれ、自チームの活動とスクールの活動を含め週に7日もサッカーをさせてくれた、すごく楽しかったありがとう。(FC東京、レイエス、テアトロ、ボカ、ラジサカなどで素晴らしい指導者、友人に出会うことができた。)
このあたりからプロになりたいと強く思うようになり、中学ではより高みを目指して3つほどJの下部組織を受けることにした。
しかし、結果は見事に全落ち。
最終選考まではいってもことごとく落ちた。
かなりへこんだが、これが実力なのだと思い知らされた。

その後、田中監督からのお誘いをいただき東京ベイFCというクラブに入団した。
またまた、このチームもかなり厳しかった。
誰かがやらかすと連帯責任で罰則がある。
特に東京ベイ名物のバービージャンプ。
あれは地獄。
平気で200回とか300回とかやらされる。
もちろん終わったころには手の皮ズル剥け。
あれで肉体的に強くなったかと言われれば微妙だが精神面は間違いなく鍛えられた。
後は合宿の時の2時間正座。
正直足無くなったかと思った。
忘れたけど原因はどうせ沖村ナサ。
何度奴のやらかしに巻き込まれたことか、でもこれもいい思い出。
さて、そろそろサッカー面の話をしよう。
サッカー面では、個人として何かこれと言って大きな結果を残せたわけでもなく、3年間が終わってしまった気がする。
試合も出たり出なかったり。
チームスタイルとしては蹴るサッカーだったため、この3年間でロングボールが磨かれ、今の自分の武器になったと感じている。
チームとしては、中学3年時にクラブユースで東京の枠を勝ち取り関東にコマを進めるも2回戦でマリノスにボコボコにされ終了。
暁(4年/神奈川大学)、3年間2人組ありがとう。
そしてその後、中学3年に差し掛かるタイミングで進路について考えるようになり、漠然と「高校サッカーがしたい」と考えるようになった。
私立の強豪校でサッカーがしたいという想いもあったが、両親から公立高校に行って欲しいとの頼みがあったので市立橘高校を目指すことにした。(最初は座間とか言ってたけど。)
偏差値が60近くあったため、今まで大して勉強をしてこなかった分本当に苦労した。
塾に2つ行かせてもらい、必死に勉強した。
その甲斐があり、見事志望校に合格することができた。
話が少し逸れるが、中学の時から仲良くなった森谷(4年/中央学院大学)には本当に感謝したい。
中学時代はお互いのクラブチームの活動が無い日には多摩川に行き、ボールを蹴って、1対1をして、を繰り返していた。
めちゃくちゃ楽しかったし、真剣にやっていたからこそ上達もできた。
帰りにはよく駄菓子屋に寄ってダラダラしてた、切実に戻りたい。
高校で大怪我をした時はリハビリがてらボールを一緒に蹴ってくれたし、高校の部活を引退してから大学に入るまでの期間も一緒にボールを蹴った。
特に高校の怪我の時はメンブレしてたけど、頻繁に気にかけてくれておかげで救われた。
何度も言うようだけど本当にありがとう、感謝してる。
返信が毎回適当すぎて腹立つけど、それもお前らしくていい。(3文字以上の文章はほぼ返ってこない。)
大学のラストイヤーで関東デビューしたのを見た時、少し悔しかったけどそれ以上に嬉しかった。
本当におめでとう!
欲を言えばお互い試合に出てマッチアップしたかったね。
おれの力不足、すまん。
まあ、とりあえずこれからもよろしく。
森谷のせいで話が逸れたので軌道修正しよう。

市立橘高校に入学した。
部員は公立高校なのに100人弱もいた。
高校1年時。
3年生の身体のでかさ、スピード、迫力に驚かされた。
中学生と高校生ではフィジカル面が圧倒的に違っていた。
もちろん公式戦に絡めるわけもなくBチーム。
練習と練習試合を繰り返し、1年の終わり際にK4の試合に少しだけ出たことを覚えている。
後はトップチームの応援。
改めて3年生のすごさを痛感させられる時間だった。
私はなぜか少し尖っていたため、晋也先生にはかなり迷惑をおかけしました。
大変申し訳ございませんでした。
あんなしょうもない僕に正面からぶつかっていただき感謝してもしきれません。
本当にありがとうございました。
後は、部活でも学校でも賢人にはお世話になった。
かなり強く当たっていたけどあれはただの愛情。
大学生になってからも頻繁に会えて嬉しい。
体育会感出してくるけど、おれは認めてないよ。

高校2年時。
部活にも馴染んできて、サッカーを楽しめるようになってきた。
K3にも出られるようになり、たまにトップチームの練習にも参加した、人数合わせで。
K3で成長できたし、3年生から多くのことを学べた。
リーグ終盤でマリノスBとやって、11-1で負けた時は絶望したね。
その時私は右SBをしていて、マッチアップは左WGにいた米山導。
縦えぐられまくった。
自分たちなりに練習もこだわって取り組んでいたからさすがに絶望した。
こんなにも差があるのかと。
でも、この経験も成長に繋がったと思う。
ていうか、そう思わないとやっていられなかったのが本音。
こんな感じでシーズンが終わり、3年生が引退した。
その後、新チームになり、なんとトップチームのスタメンになることができた。
めちゃくちゃ嬉しかったし、努力が報われた瞬間だと感じた。
来年のリーグ戦も選手権も絶対結果残してやる!!!って気合入りまくってた。
そんな矢先、12月末のカップ戦で忘れもしないできごとが起きた。
シュートブロックをして足が持っていかれ、着地に失敗した。
「ゴリゴリッ」ってえぐい音がした。
“前十字靭帯断裂。”
医師からは「最低でも半年はできないですし、手術しないと競技復帰できませんね。」と言われた。
頭の中は「???」だらけ。
サッカー選手の大怪我でよく聞いたことがあるな、くらいで他人事だった。
病院から家に帰り、1人で冷静になると涙が止まらなかった。
引退かな、辞め時なのかも。
時期も時期だったしそう思ってしまった。
しかし、ここ改めて仲間の偉大さに気づかされた。
上でも書いたので割愛するが、森谷が「待ち遠しい!」って言ってくれたり「いつでもおれ利用して」って言ってくれた。(本人は適当だから多分覚えてない。)
また、中坪が「また一緒に試合出ような!」って何度も励ましてくれた。
入院中は智士、相曽、龍也が2回もお見舞いに来てくれた。
さらに、大輝(4年/神奈川大学)とひと(4年/産業能率大学)は「怪我してるキャラええて」って煽ってきたりもした。
みんなからの愛を感じ、もう1度頑張ろうと思えた。
みんな本当にありがとう。
後ほど書かせていただくが、「誰かのために」という力の偉大さを強く実感した。
しかし、手術後の痛みは想像以上だった。
膝が曲がらない、力が入らない、見る見る足が細くなる、ポキポキと変な音が鳴る。
その後のリハビリはもっと地獄だったが、「復帰を待ち望む仲間のために」を原動力に腐らず取り組んだ。
この時リハビリを手伝ってくださったトレーナーの皆様、手術や治療をしてくれた先生方、本当にありがとうございました。(おかげさまで今も怪我無くサッカーができてます!)

高校3年時。
リハビリの期間が大半を占めた。
夢の舞台である選手権は間に合わなかったけど、それでも仲間のおかげで頑張ることができた。
怪我から11か月、手術から10か月でK1のリーグ戦で試合に復帰することができた。
結果は1-3で負けてしまったが、こみ上げてくるものがあった。
怪我した瞬間、山本先生に「お前大事な時に本当使えないな」って言われたけど、試合後、「よく頑張った」って握手をしてくれたからチャラにしよっと。
復帰明けの私を信じて試合に使ってくださりありがとうございました。
その後、復帰後2試合目のK1最終節もスタメンだった。
しかも、CKからヘディングで先制弾を挙げることができた。
サッカーの神様はいるのかもと思えた瞬間だった。
結果は2-2で引き分け。
勝ってはいないがとてつもない達成感があった。
この達成感と選手権に出られなかったもどかしさから大学でもサッカーをしようと決意した。

そして、専修大学体育会サッカー部に入部。

1年時。
レベルの高い環境について行くので必死だった。
パススピード、フィジカル面、何から何までレベルが違った。
4年生も怖く、ビビりながらサッカーをしていたのを覚えている。
管理棟で着替える時も自由に会話なんてできたもんじゃない。
そのくらいの緊張感だった。(加茂くんだけはめちゃくちゃ絡んでくれたけど。)
練習は失点をすると走りが増えるDFの私からしたら地獄のメニュー。
ミスをするたび、失点をするたび先輩の顔色を伺っていた。(15:15とか走った。)
その後、シーズン終盤は2年生と一緒に社会人リーグに出場した。
結果として、神奈川県社会人サッカーリーグ3部から2部に昇格させることができた。
大学サッカーのレベルの高さを痛感したシーズンだった。

2年時。
引き続き社会人リーグを主戦場とした1年だった。
リーグ最終節、神奈川県社会人サッカーリーグ1部昇格がかかった大事な1戦。
スタメンで出場した。
先制したものの自らがPKを献上し、失点。
その後も失点をし、1-3で敗戦。
大学サッカーで初めて試合に負けて悔しいという感情が込み上げてきた。
もちろんリーグ昇格はできなかった。
途中から西ヶ谷さんが来てくださり、自分に的確なアドバイスをくれた。
練習メニューは頭を使うものばかり。
新鮮で楽しかったのを覚えている。
その後、シーズン終盤にトップチームと紅白戦をした際、増田さんに評価していただきトップチームに昇格することができた。
しかし、練習ではビビってばかり。
周りにはJユースや強豪校の出身しかいなかった。
「市立橘高校?どこそれ?京都橘じゃなくて?」って何回か言われた。笑
トップチームに昇格したのがシーズン終盤だったため、こんなビビったマインドで練習をこなしているうちにあっという間にシーズンが終了していた。

3年時。
再びトップチームでシーズンが開始した。
引き続きビビったマインドでサッカーをしており、もちろん上手くいくわけがない。
しかし、色々な偶然が重なってプレシーズンの駒沢との練習試合でまさかのスタメン。
結果は0-4。
当たり前のように失点に絡み、競り合いは全負け。
試合後監督からは「カラーコーン置いた方がまだましだよ」と言われた。
1週回ってもはや何も感じなかった。
その後、もちろん出場機会など回ってくるわけもなく半年が過ぎた。
そして夏頃、A2に降格。
まあ、「だろうな」と思っていた。
隼太の部屋に貼ってある「自分に期待しろ」っていうマインドでプレーできていたらもっと結果が違ったかもな。笑(結構この言葉好き、隼太プロでも頑張ってね。)
さらに、その後はA2にいながらIリーグに出場する日々を送っていた。
記憶が正しければ勝ったのは1試合くらい。
後はほぼ負け。
またまた監督から「お前が出る試合は全部負ける」と言われた。
秋頃になると、サッカーが上手くいかない私は就活を言い訳にサッカーから逃げるようになっていた。
もちろんIリーグにも出られなくなり、次第にサッカーへの熱は冷めていった。
就活を言い訳にサッカーが上手くいかないことを正当化していたのかもしれない。
確かに、就活は大事。
だけど、今思い返すともっとやるべきことがあったと後悔している。
こんな感じでシーズンを終えた。

4年時。
プレシーズンの時期は就活に追われていてなかなか部活に身が入らなかった。
練習を休む回数も増え、サッカーから離れていった。
4月頃、就活も落ち着き部活に戻った。
ちょうど新環境になった頃あたりだった。
確かに思うことはたくさんあった。
4年間で1番モヤモヤするシーズンだった。
悔しいとかではなく、よくわからない感情。
でも、結局は自分やサッカーに対してではなく、環境にばかりベクトルを向けてしまっていた。
反逆者の武富くんと同じく、私も思ったことを指導者の前でも言うタイプだったので当然何度か揉めた。
もちろん、印象も良くない。
結果として、シーズンを通して1秒も試合に出られずに終わってしまった。
Iリーグ最終節の1つ前の試合で國學院大學との試合があった。
もちろん、結人はキャプテンマークを巻き奮闘していた。
でも、その時おれは上からただ観ていただけ。
不甲斐ない気持ちでいっぱいだった。
結人と戦いたかった、その姿をお互いの両親に見せてあげたかった。
おれも武富と同じで「もう1度大学人生をやり直したい」そう思ってる。
環境に文句を言うことや周りにベクトルを向けることは簡単。
そうではなくて、置かれた環境でどう成長できるか、どう活躍できるか、その考え方が重要であると身をもって学ぶことができた。
それと同時に後輩にはこれを教訓に頑張って欲しい、応援してるよ。

2)17年間、特に最後の4年間で何を学び、得ることができたのか。
【「次」は当たり前のように無いということ】
私は5歳から22歳になる今現在まで当たり前のようにサッカーを続けてきた。
幼稚園の次は小学生、小学生の次は中学生、中学生の次は高校生、高校生の次は大学生と。
サッカーを続けるためのステージが用意されていた。
でも、大学生の次は社会人。
世間一般では就職するのが当たり前、私もそうだ。
プロになるか、社会人として働きながらサッカーを続ける以外方法はない。
学生としてサッカーに全力を注げるのは大学生まで。
だから、サッカーを続けている後輩たちにはもっと楽しんで欲しいし、頑張って欲しい。
次頑張ればいいやとか来年頑張ればいいやとかはおすすめできない。
次なんて当たり前にあるわけじゃないし、今日の1日を、一瞬一瞬を大切にして欲しい。(ラストイヤーかなりサボっていたやつに言われても響かないかもしれないけど。)
あきのお兄さんのことを勝手に出してしまって申し訳ないが、あのブログを読んだときは号泣した。
あきのお兄さんが「グラウンドに電車で向かっているとき、部室で同期と話しているとき、スパイクの紐を結んでいるとき、ボールを蹴ったとき、全てが幸せだった。」という言葉を綴っていた。
当たり前のことすぎて何も感じないかもしれないが、この当たり前がいかにありがたいことか。
サッカーをしたくてもできない人たちがいる。
その人たちのためにも全力で取り組まなければいけない、そう気づかされた。
どんな物事も後悔しないように全力を注いでもどうせ後悔する。
だから、その後悔を最小限にできるように後輩たちには頑張って欲しい。

【不平不満を言えることのありがたみ】
引退してから不平不満を言えることが幸せだなんて思いもしなかった。
「足が痛い」、「身体がきつい」、「この練習に何の意味があるんだよ」「また走りかよ」
よく耳にする言葉だし、誰もが1度は口にしたことがあるんじゃないかと思う。
こんなことを思ったり口にしたりすることは当然良くないことだと分かっている。
でも、引退して思うのは虚無だということ。
引退してからは不平不満なんて全く出てこない。
サッカーできる環境があるからこそ不平不満が生まれるし、他の環境を羨んだりするのだと思う。
「隣の芝生は青く見える」という言葉があるがまさにその通りだ思う。
要するに、ないものねだりをして不平不満が生まれているのだ。
決して不平不満を言えとか言っているわけではない。
でも、不満を言えること=サッカーを全力で取り組める環境があるということだと身をもって実感している。
だから、後輩たちには今ある環境に感謝して全力で取り組んで欲しいということ。
置かれた場所で咲いて欲しいということ。
それでも、辛かったり納得できないこともあると思う。
そんな時はいつでも話聞くから連絡してこい。
後輩たちよみんな頑張れ。
ここの文章に合った好きな曲のワンフレーズを置いておきます。
「疲れてあるけないんなら、立ち止まってしがみついていれば、地球は回っていって、きっといい方向へ、僕らを運んでくれる。」(足音~Be Strong/Mr.Children)

【チームスポーツの素晴らしさ】
17年間サッカーを続けてきて幾度となく素晴らしい経験をしてきた。
数え上げればキリがないので割愛するが、1つ挙げるとするならば大学3年時に3か月間指導してくださった森さんの言葉がチームスポーツの素晴らしさを表しており、私の心に響いたので共有する。
「ミスをしたくてミスをしている選手なんて1人もいない。そのミスした選手に文句を言ったり強い言葉を浴びせても良いことなんて1つもない。むしろ、次プレーすることが怖くなってもっとプレーが悪くなる。だから、誰かがミスしてボールを奪われても全員でカバーしてボールを奪い返す。その後ミスをした調子の悪い選手が良いプレーをした時には全員で鼓舞をして褒めてあげる。そうするとその選手は段々と乗ってきてパフォーマンスが上がる。そして、いずれそのプレーは伝染してチーム全体の強さに繋がる。」とおっしゃっていた。
本当に良い言葉だし、良い考え方だと思う。
森さんは決して甘いことを言っているわけでも、傷の舐め合いをしろと言っているわけではない。
この考え方がチームスポーツの本質であり、忘れてはいけないことだと感じる。
森さんはブログでも「成功者は周りから押し上げられる人間性、仲間から持ち上げられる人間性を持ち合わせている」とおっしゃっていた。
私もこのような人間になれるよう精進したい。
社会に出てからもこの教訓を存分に生かしていきたいと強く思う。

【「誰かのために」が生む力の大きさ】
「誰かのために戦え」この言葉は高校時代の監督である山本先生がよくおっしゃっていた言葉だ。
私はこの言葉に何度も助けられたし、この言葉があったからこそ今現在までサッカーを続けてこれたのかもしれない。
人間は弱く、自分のためだけではすぐに妥協してしまうし、折れてしまう。
でも、誰かのためにというマインドがあれば1人じゃ踏ん張れなかったものも踏ん張れると身をもって体感した。
試合中であれば、「チームメイトのために」ときつい時間帯も足を止めずに身体を張ることができた。
何かサッカーで心が折れてしまいそうな時であれば、「支えてくれている家族のために」ともう少し頑張ってみよう踏ん張ることができた。
この言葉があったおかげで5歳から17年間サッカーを続けてこられたし、見たことのない景色、味わったことのない経験、素晴らしい仲間に出会うことができた。
後輩たちには辛くて逃げたいと思った時があっても「誰かのために」というマインドを持ってもう少し踏ん張ってみてほしい。
きっと色々なものが得られると思う。
山本先生、素晴らしい言葉をくださり本当にありがとうございました。

【仲間との出会いや再会のエモさ】
これはサッカーを続けてきた誰もが共感することだと思う。
幼・小・中・高・大と学年が上がるにつれて様々な同期、先輩、後輩に出会ってきた。
挙げだしたらキリがないくらい個性的な仲間に出会ってきた。
「サッカーが上手くなりたい」、「試合に勝ちたい」、「プロになりたい」など同じ想いを持って集った仲間はどこか格別に感じる。
特に、個人的に好きなのは仲間との再会。
小学生の時、スクールで一緒にサッカーをしていた成川。
小学生の時、よく対戦していた泰治と港斗。(なんなら泰治は中学も)
こいつらとはまさかの大学で再会。
また、試合会場で他大学と一緒になると色々なやつらに再会する。
中でも、神大は思い入れがある。
小学生時代チームメイトの麟、中学生時代チームメイトの暁、高校時代チームメイトの大輝がいてなんか感慨深かった。
みんな試合出ていておれだけ出ていなくて気まずいけど。
他にもたくさんの素晴らしい出会い、再会があった。
これからもこの仲間を大切にしていきたいと心から思う。
後は、ラストイヤーでお世話になった通い組のあきと泰治。
本当にありがとう。
最後の1年つまらなくて何度も辞めようと思ったけど2人がいたから辞めなかったかな。
あきとは就活の話をよくしたし、泰治とは早く彼女と別れろって話をよくしたな。
部活がつまらなくても帰りに「あいつらと話して飯行けるからいっか」みたいなノリで部活行ってた。
後、練習終わった後に隼太の家で荒野できるし。(みんな下手すぎて一瞬でブーム終わったけど。)
あきと泰治それぞれ単体だとただのいい奴なのに2人がくっつくとおれのこといじめてくるのは何なのだろうか。
また、朝定か朝マックで語ろうな。(オリジンでも可。)
あ、忘れてた、弘和にも色々な意味で感謝しなきゃ。笑
本当にありがとう。
三茶の寿司行こうね♡

長々と書いてしまったが、書こうと思えばまだまだ書ける気がしている。
でもこの辺にしておこう。
レポート課題では字数を満たすので必死なのに、サッカーのこととなると無限に書けそうだ。(気が付けば1万字超えてました。笑)
それほど濃い17年間を過ごせたということだろうか。
「何かクサいことを言ってるなこいつ」と笑われてもいい。
笑う奴は物事に対して真剣に取り組んだことがないのだから。
サッカーだけじゃなくていい、何かに熱中できることは素晴らしいことだし幸せなこと。
ただ私はそれがたまたまサッカーだっただけ。
冒頭で、
“こんな終わり方なら大学サッカーなんてやらない方がよかった。”
“この4年間は何の意味もなかったのか。”
“あー、バイトたくさんして旅行とかしていた方が有意義だったかもな。”
ネガティブな思考が自分の脳内を駆け巡った。
とお話ししたが、それだけは絶対に違うと胸を張って断言できる。
確かに大学生は色々な誘惑がある。
友人のストーリーを見れば楽しそうな旅行や飲み会の写真が上がっている中で、私たちは4年間、週6日ボールを追い続けてきた。
周囲の人たちに「大学でもサッカーしてるなんてすごいね!」とか言われるけど、別に誰かに褒められるためにサッカーをしているわけではない。
狙い通りのロングボールが通せた時、対人で相手を潰せた時、11人全員で90分間戦って試合に勝った時、数え上げればキリがないほど様々な場面でエクスタシーを感じてきた。
プロになれたわけでも何か大きなことを成し遂げられたわけではないれど、少しは自分のことを称えたい。
これだけ多くのことを学び、得ることができた。
本当に幸せな17年間をだった。
来世でも絶対サッカーをして素晴らしい経験をし、たくさんの仲間に出会いたい。

最後に、

“同期へ”
4年間ありがとう!
おれの性格的にほぼ全員と関わることができたかな。
癖のあるやつらばかりで毎日楽しすぎた、ありがとう。
おしゃべりのおれを受け入れて仲良くしてくれて感謝してる。(あきはよく馬鹿にしてくるけど。)
プロサッカー選手、サラリーマン、それぞれの道で頑張ろうな。
また会いましょう。

“後輩へ”
辛かったり逃げたくなることばかりだと思う。
だけど、もう少し踏ん張ってみて欲しい。
おれと同じ後悔はしてほしくないから。
いつでも連絡してくれ、消費者金融にお金借りてでも飯連れてくから。(K2の挙輝は不可。)

“家族へ”
《父》
決して裕福とは言えない中で大学までサッカーを続けさせてくれてありがとう。
小学生の時は何度も送迎してくれてありがとう。
多摩川の自主練にたくさん付き合ってくれてありがとう、おかげでロングボールが武器になった。
《姉1》
おれが好き勝手サッカーをしているせいで、多くのことを我慢してくれたと思う。
ごめんね。
後は大学の時、昼飯をたくさん作ってくれてありがとう。
部活でヘトヘトだったから本当に助かった。
《姉2》
サッカーを始めるきっかけを作ってくれてありがとう。
高校で大怪我をした時、リハビリに付き合ってくれてありがとう。
《母》
家族の中でも1番のありがとうを伝えたい。
色々なことを当たり前のようにしてくれていた。
サッカーを始めた時から大学生になるまで、おにぎりを作って持たせてくれてありがとう。
おかげで180cmを超える巨体になれたよ。
大学に入ってからは早朝練で5時起きだったのにも関わらず、おれよりも早く起きてご飯を出してくれて本当にありがとう。
それなのにラストイヤー文句ばかりでごめん。
大した功績も残せなくてごめん。
たくさん支えてくれたのに結果で恩返しできなくてごめん。
最後観に来てくれた試合も出られなくてごめん。
引退した日、姉から「大聖の洗濯物干すのも今日で最後か、、、ってママが号泣してたよ」という話を聞いてさすがに堪えられなかった。
今度はおれが支えます、親孝行します、めちゃくちゃ稼ぐので今から欲しいものたくさんリストアップしといてください。
今までお疲れ様。
ママの子で本当に良かった。
これからもよろしくね。

非常に長く、拙い文章でしたが最後まで読んでいただきたいありがとうございました。

11/23(土)は関東2部昇格をかけた大事な1戦があります。
引き続き専修大学体育会サッカー部の応援をよろしくお願いいたします!

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