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部員ブログ

2024.11.25
茨木緩汰
道標

こんにちは。

本日引退ブログを担当します、茨木緩汰です。

まだあまり整理出来てない部分もありますが、書きながら少しずつ整理出来たらなと思うので、最後まで見ていただけたら嬉しいです。

 

 

 

 

まずは、4年間を振り返ってみて。

こんな4年間だったんだな、くらいに思っておいてもらえれば大丈夫です。

 

 

 

 

 

大学サッカー1年目。

多分だけど、隼大や奏七と同じ3月6日に練習参加し始めた。

その日から4時起きの生活が始まって、とにかく毎日があっという間に終わる日々を過ごしていた。

そのような生活が始まったこともあり、最初の1、2ヶ月は大学サッカーに慣れるので精一杯だった。覚えてることもあまりない。

けど、一丸がフリーキック変なとこ蹴って増田さんにめっちゃ怒られてたのは多分みんなも覚えてるはず。(同じ試合で厳がハットトリックしてました。これは覚えてる人いるのかな。)

そこからやっとの思いで、夏前くらいからトップに上がった。

コロナの影響もあって、グランドが使えない時は多摩川で土手ランだけのために登戸まで行ったり、毎週関東リーグやアミノバイタルカップがあるにも関わらず、なかなか追加登録されなかったり、補助学で流経まで電車で向かったりもした。

さらに、夏休みに怪我明け一発目の練習でクーラーボックスがなく練習中にも関わらず寮に取りに行ったらそれが見つかり、めちゃくちゃ怒られて皆が練習してる外で7:7を2セット走った。

(これはある意味いい思い出です。)

とにかく、とにかくキツかった。

そんなこんなで、関東リーグに登録されたのは、夏休みがほぼ終わりに近い時期で、後期のリーグ戦が始まるタイミングだった。

弘和と一緒に、練習終わりの等々力第一から寮まで写真を撮りに行った。

そして、初めて関東リーグに出た神奈川大戦。

途中出場したその流れでフリーキックのチャンスがあり、キッカーを務めた。

とりあえず結果を残したかったから、事故が起こりそうな低くて速いボールを蹴った。

それが点に繋がった。4点目だったけど、とにかく嬉しかった。

試合に勝つことが出来て、自分の中でやっと始まったなという感覚だった。

しかし、スタメンで出場した中央大学戦と東京国際戦では、何も出来なかった。

両試合とも、70分くらいで交代した記憶しかない。さらには接戦で負けた。

試合に出ることで初めて嬉しさや喜びを得たと同時に、関東リーグの厳しさや難しさを体感した。悔しかったけど、すぐに試合はやってくるし、やるしかない。

 

 

 

 

そう思っていた。

 

 

 

 

次の週の試合前日、クロス対応の練習をしていた時だった。

守備をしていた自分は、クリアが目の前にこぼれたのを見て必死に足を出した。

さらに、そのこぼれ球を打とうとする相手が足を振ってきてたのが目に入ってきた。

けど身体が止まらなかった。

その数秒後、右足首に強烈な痛みが走った。

その場に倒れ込み、起きても痛みで全く歩けなかった。

これからって時に、怪我をしてしまった。

自分の1年目は、この日に終わってしまった。

その日からは、自宅から通っていて、松葉杖の生活になったということもあり、2ヶ月ほどグランドに行けなくなった。

最終的にチームも2部から降格し、県リーグで戦うことになってしまった。

そして、同期や先輩は新人戦を戦っていたが、その新人戦にも全く関わることなく、画面越しに優勝した瞬間を見届けた。

チームが優勝して嬉しかったが、素直に全てを喜べない自分がいた。

そんな形で、1年目を終えた。

 

 

 

ここから、2年目と3年目の話をしようと思ったが、正直なところ、ほとんどこれといった思い出も記憶もない。

怪我から復帰したのは半年経った2年の4月が終わろうとしている時期だった。

復帰してからも、怪我する前とは全く違う感覚でサッカーをしていた。

思った通りに身体が動かない。ボールが蹴れない。

そして、なにより怪我して復帰しての繰り返しだった。

少し身体が慣れてきたと思って、調子が上がってきたなという時に怪我をしていた。

結局、2年生の時はIリーグには出ていたものの、1試合もトップの公式戦には出ることはなかったし、3年生でも公式戦に出たのは県知事杯とアミノでの2試合、この3試合の途中出場だけだった。

とにかく、挫折の連続だった。

怪我をしている間に、同期や後輩がどんどん試合に出ることが増えた。

プレーしていても、ミスばっかりで次第にボールを受けようとすることをやめた。

元いたポジションではなく、不慣れなポジションでサッカーをすることが増え、受け入れることが出来なかった。

そんな状態でプレーしても、もちろん全く上手くことはなく、3年生の夏休みの終わりにはトップからいなくなっていた。

しかし、この時期にA2を指導していた森さんに出会うことが出来たのは、自分にとってとても大きなことだったと思う。

短い期間ではあったけれど、サッカーの楽しさや奥深さ、技術に対して一から向き合うように手を差し伸べてくれた。

だからこそ、最後の1年はどんな形になってもやり切ると決めた。

 

 

 

そして4年目。

春休みの練習試合でまた軽い怪我をして、関東リーグの開幕には間に合わなかったけれど、なんとか途中ながら試合に出る機会を増やしていった。

身体もかなり動く感覚だった。

しかし、前期の明治学院戦。

途中出場した後のワンプレー目で盛大に足首を捻った。

ロングスローを3回投げて、10分で交代した。

情けなかった。惨めだった。

母と弟が観に来ていたが、怪我をして心配している顔を見て、涙をこらえるので必死だった。

家に帰って部屋越しに母が父に「試合見に行ったから怪我したのかなー?」と言ったのを聞き、

母にこんなことを思わせてしまったのかと、自分に絶望した。

さらに、その怪我から復帰した週の作新学院戦。

残り3分で出場した自分は、ロングスローをクリアしようとした時に空振りしてしまい、その流れで同点弾を与えてしまった。

あの時の、試合が終わった時のチームの空気、帰り道の自分は最悪だった。

さらに、家で試合を見ていた両親が、帰ってきてからなんとも言えない表情をしていたのを見て、

こんなんになるなら、試合に出なきゃ良かったと思ってしまった。

そこから、精神的にも身体的にも限界に近い時期が続いて、試合に絡むことも少なくなった。

不幸中の幸いだったのは、リーグの中断期間で嫌でも自分を振り返る時間があったこと。

ここで、改めて最後までどんな形でもやり切ることを確認できた。

しかしリーグ再開後は、スタメンで出ることもあったが勝てない試合が続いていった。

チーム全体でミーティングをして、そこから持ち直して5連勝してリーグ戦が終わったけど、結局自分は次第に出場しなくなっていって、気付けば、プレーオフの日を迎えていた。

 

 

 

そして、最後の試合、山梨学院大戦。

試合が終わった時、自分はベンチにいた。

正直、ブログを書いているこの今も、色んな感情が巡ってきて何を書けばいいのかわからない。

けれど、終わった時に涙は出てこなかった。

その事実はわかっている。

そして、おそらくその理由も自分はわかっている。

挫折し、いつしかプロになる夢を諦め、最後にピッチに立つことも叶わなかった。

この4年間、怪我に悩まされサッカーが上手くなっているという感覚もなく、後悔や悔しさが先行し、サッカーを楽しめたと言える時間は正直少なかった。

腐りかけたし、何度も理由を作って、それを正当化して自分のサッカーを諦めようとしたし、多くの困難から逃げようともした。

それでも、最後の瞬間までどんな形でも、やり切った。

 

帰りのバスの中で両親からLINEでメッセージか送られてきた時は、涙が止まらなかったけれど。

(後ろに豪郎がいて、横には瑛斗がいたから、泣いてるのを見られたくなくてベンチコートで隠してました。)

こうして、4年間の大学サッカー生活が終わった。

 

 

 

 

さて、ここからはまた別の話を。

長くなってすいません。

 

 

まずは後輩の皆へ。

こんなこと言ってたなと思うくらいで充分です。

今、どんな気持ちでサッカーをしていますか。

思うことも感じることもそれぞれ違っているとは思いますが、どんな形であれ最後までこの4年間を駆け抜けてほしいです。

おそらく、ここまでサッカーを続けているのであれば人生で一番好きなことはサッカーだという人がほとんどだと思うので、そう簡単に手放さないように。

やり切った人にしか得られないものがあります。

連絡してくれたら、ご飯にでも連れて行きます。

応援しています。頑張れ。

頼りないながらも、最後までついてきてくれてありがとう。

 

 

 

岡田と亮太、君達はそう簡単に連れて行きません。

カンバと空、基成はまだ会うことあるし、

多分たこ焼きだよね。

はま寿司組は、まず豪郎にお願いすること。

ダメだったらその次は港斗に。

清太郎、幸弥、柳生、あと1年早起き頑張れ。

管理棟は任せました。

ラストイヤー、期待しています。

優斗、燦、ずっと頑張れ。

どっちが突き抜けるんだろう。

幹太、敢大、同じ名前で練習中によく呼ばれるから、何回反応したことか。

同じ名前ってだけだけど、期待してます。

 

 

 

そして同期の皆へ。

まずは、4年間ありがとう。

さあここから長々と書こうかなと思ったけど、逆に多すぎて書けないくらいです。

けどこれだけは1つ。

この4年間が、皆と一緒でよかった。

 

 

 

何人か個人宛に。

まずは上のステージに進む人達へ。

厳、キャプテンお疲れ様。

1年生の頃は厳とポジション争いをしてたね。

なんか顔似てるって言われることもありましたが、顔は自分の方が小さいので割とわかりやすいんかなと思ってます。

貫き通す君の強さは武器だと思います。ちゃんと試合見てるからな。前半で退場すんなよ。

 

 

一丸、結構プレーで言われること多く見てきたけど、俺は一丸のサイドバックでのプレースタイルがめっちゃ好きでした。あと隼大も言ってたけど、1番サッカー好きなんだろうなって伝わってきたのは一丸ね。

距離感には気をつけて。あれ結構好きだけどね。

 

 

隼大、君の家には沢山お世話になりました。

隼大も一丸と同じでよく言われてたけど、なんだかんだ隼大はあのスタイルでよかったと思う。

これから何人ぶち抜いてくれるんでしょうかね。

1番まともって言ってくれてありがとう。

よくわかってるじゃん。

自分に期待しろ。

 

3人ともずっと頑張れよ!!!

 

 

 

弘和、君のせいでありもしない話まで言われることもありました。

ただ、サッカーだと冷静で、堅実で、めちゃくちゃ頼りになりました。

正直悔しいけど、俺も瑛斗と弘和のコンビが1番良かったんじゃないかなって思います。

カズヒロって呼ばれてたことは忘れません。

もう君の1限にはついて行かないからね。

 

 

 

アキ、お互い励まし合いながら4年間4時起き頑張ったなー。

罰ゲームの2往復44秒も懐かしいね。

あんまり多くは語らないタイプだけど、たまーにアキから熱い話を聞いて、めっちゃよく考えてるんだなあって思ってました。

もっとミドル決めてるとこ見たかったです。あとヌルヌルドリブルも。

お幸せにね。ちなみに12/14は行くのかな?

 

 

 

港斗、中学で対戦した時の記憶のまま、守備めちゃくちゃ硬かったです。

何回かえ、そこまで行くんかいって思った時もあったけど、それも含めてやっぱ港斗だなって思いました。

ブラッシング髙橋、もう少し見たかったな。

また別荘連れて行ってください。待ってます。

 

 

 

瑛斗、瑞季とお互い友達だったから、割とすぐ仲良くなりましたね。

巧いし、試合中のボール回収は瑛斗にしか出来ないものだったと思います。さすが8番。

買い物一緒に行ったのは瑛斗だし、2人で新境地開拓したり、色んなことしました。まだまだ行きましょう。

 

 

 

豪郎、多分豪郎といる時間が4年間で1番長かったんじゃないかなと思います。

めちゃくちゃ上手いし、点取るし、ニヤけるし、色々と欲張りだし、アップで脳震盪なるし。

あと熱中症になって管理棟のシャワー室で30分くらい水浴びてたし。

何回一緒に昼食べに行ったんだろう。はま寿司これからも行こうな。

Switchのソフトは揃えておいてね、きっと寂しいだろうし死ぬほど遊びに行くよ。

 

ここで書けなかった人もありがとう。

必ず追って伝えます。今ここで言いました。

とにかく幸樹は絶対欲しいでしょ。こういうの。

 

 

 

辛かったことの方が多かったし、夢を叶えることは出来なかったけど、これもまた1つのサッカー人生です。

正直全然書いてても整理は出来なかったし、伝えたいことは多分まだまだ出てくるかなと思います。

それほどに沢山の経験と学びを与えてくれた4年間でした。

なんだかんだ言っても、全部含めて楽しかった!

大学サッカーありがとう!!

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