こんにちは。
本日引退ブログを担当します、渡邊弘和です。
何を書こうか悩みましたが、サッカー人生の最後の記録として、17年間のサッカー人生を振り返り素直に綴れたらと思います。
5歳のとき、友達のお母さんに誘われプログレッソというチームでサッカーを始めた。
その頃の記憶はないが、お母さん曰くサッカーには全く興味はなく、練習に行ってもずっと砂遊びをしていたらしい。
それでも辞めさせないでサッカーを続けさせてくれた親には物凄く感謝している。
小学生の時は学校が終わるとサッカーばかりしていた。
自分の周りにはサッカーが大好きで上手い友達がたくさんいた。
この頃はただ純粋にサッカーが好きで、楽しくて仕方なかった。
中学に上がるタイミングで、上手いチームメイトは強いチームに移っていったが、自分はプログレッソに残った。
今になってお母さんはここで強いチームに行けば良かったねと言ってくる。
正直、強いチームで勝負したい気持ちもあったが、当時の自分はトレセンなどで他に上手いやつがいっぱいいることを分かっていたし、戦える自信がなく移籍したいと言わなかった。
中学では上の学年の試合に出させてもらえたし、キャプテンもさせてもらえた。
しかし、ドウやカンタ、アキと違って東京3部のチーム。
どこの高校でサッカーをするか物凄く悩んだ。
選手権に出ることがずっと夢で、縁があって仙台育英の練習に参加させてもらった。
ある程度の手応えはあった。
しかし、東京3部のチームから強豪校に行って試合に出るのは簡単なことではないと分かっていた。
お父さんには行っても出られるわけがないと言われ、お母さんからは家から通えて頭の良いそこそこサッカーの強い高校にしたらと言われた。
でも、お姉ちゃんは「人生一回きり、ここで行かなきゃ一生後悔するよ」と言ってくれた。
周りに馬鹿にされているのも分かっていたが、みんな見返してやろうと仙台育英に行くことを決めた。
高校1年目。
3月の終わりに引っ越し、入学前から練習に参加した。
初めての練習。衝撃を受けた。
速い、でかい、強い、上手い。
そして自分たちの代だけで70人以上。
部員が多すぎる。
来るとこ間違えたと思った。
これが高校サッカーのはじまりだった。
最初から運良くルーキーリーグのベンチには入ることができた。
そして入学して3ヶ月くらいが経った頃、ルーキーリーグの聖和戦があった。
この試合が高校サッカーでのターニングポイントだったと思う。
入学してから初めてお母さんが試合を観に来てくれた。
自分はベンチだったが調子が良かったし絶対に出られると思っていた。
しかし、試合終了の笛をベンチで聞いた。
日帰りでわざわざ東京から新幹線で時間もお金もかけてお母さんは応援に来てくれたが、試合に出ることができなかった。
悔しくて、情けなくて、申し訳なくてお母さんの前で泣いてしまった。
このままじゃだめだと本気で思った。
この試合の悔しさが自分を成長させてくれたと思う。
それからは、ルーキーリーグはほとんどスタメンで出ることができたし、夏に初めてAチームの遠征に帯同することができた。
そして、1年目の選手権。
県大会はメンバー外だったが、チームは優勝した。
自分のチームが憧れの選手権に出る。
とても嬉しかった。
そして選手権。
30番でギリギリメンバーに入ることができた。
選手権前の1ヶ月間はミスをすると怖い3年生にめちゃくちゃ文句を言われ、精神的にとてもきつくて毎日怯えて練習をしていた。
でも、1年目から選手権前の緊張感を味わえて、いい経験になったと思う。
1回戦はベンチ外だったが、2回戦はベンチに入ることができた。
3回くらい「弘和、上げろ」と監督に言われこの時が人生で1番緊張したと思う。
結局試合に出ることはなくチームは負けてしまった。
また来年この舞台に今度はスタメンとして戻って来ると誓った。
高校2年目はずっと試合に出ることができた。
1個上の先輩は優しかったし、同期も多く出ていて楽しかった。
しかし、新人戦でもインターハイでも力丸くんがキャプテンをしていた聖和に勝てなかった。
そして選手権。
ほとんどの人が聖和に勝てるとは思っていなかった。
試合前も「5点以内に抑えよう」とか話していたのを覚えている。
前半、キーパーの普段ではあり得ないようなミスから失点した。
でも、この失点があったからみんながキーパーのミスを取り返そうと普段以上の力を出せたと思う。
これがサッカーの面白いところ。
後半2点取ることができ、逆転して2年目も選手権に出られることが決まった。
また、憧れの舞台に今度はスタメンとして戻って来ることができた。
選手権では、チームとして思い通りにいった試合はなかったが、がむしゃらに守ってPKや接戦でベスト8まで行くことができた。
最高に楽しかったし、ここが自分のサッカー人生の全盛期だったと思う。
高校3年目。
プレミアリーグ昇格とインターハイ、選手権での上位進出を目標にスタートした。
冬はとにかくずっと走っていた。
平日は監督がグラウンドにいる間は倉庫からボールを出すの禁止。
ボールを使えるのは自主練と土日の練習試合のみ。
そんな高校あるのか。
それでも、目標があったから頑張れた。
シーズンが始まる直前、コロナで練習ができなくなった。
プリンスリーグ中止、インターハイ中止。
絶望だった。
当たり前にサッカーが出来ていたことが当たり前じゃなくなった。
この先どうなるか分からない中、選手権があることだけを信じ、自宅待機中もトレーニングをした。
何とか無観客で選手権ができることが決まった。
嬉しかったが、この年も選手権まで聖和に1回も勝てていなかった。
そんな中、県大会決勝でまさかのキャプテンが受験で欠場。
自分がキャプテンを任された。
チームの連続優勝を途絶えさせてはいけないプレッシャーもあったし、キャプテンを絶対全国に連れて行きたかった。
この試合も前半開始早々に失点したが、逆転をして優勝することができた。
試合終了の瞬間、自然と涙が出てきた。
この1年間はコロナや、勝たなければいけない重圧がありとても苦しかった。
すべてから解き放たれた瞬間だった。
選手権では去年のベスト8を超えたかったが、ベスト16で終わってしまった。
しかし、3年とも選手権に出ることができたし、ここでの3年間で人としても成長することができた。
ここに来る選択をして本当に良かったと思う。
大学は当時関東1部(入学した時は関東2部)だった専修大学をプロになりたくて選んだ。
最初はイチマルとかイブキとかのユース組が尖っていて、こいつらとは4年間絶対に仲良くなれないと思った。
同期の同じポジションには、エイト、タケロウ、カンタ、タケトミ、ハルトがいた。
みんな上手すぎて、プロになるどころか4年間試合に出られる気がしなかった。
1年の最初は1年だけのチームを作られて、指導者がいないなかサッカーをしていた。
そんな中、紅白戦を安永さんが見てA2に上げてくれた。
A2ではIリーグに1試合だけ出て7月にアキと一緒にAチームに上がった。
毎日練習についていくのに必死だった。
Aチームに上がって関東リーグのメンバーに登録されたものの、全く試合に絡むことができず、アキやコウキとずっと補助学をしていた。
チームの県リーグ降格が決まった試合も担架をしていて、イチマルが隣でめっちゃ泣いていたのを覚えている。
県リーグに落ちてしまうチームで全く試合に絡むことができず、大学サッカーレベル高すぎだろと思ったし、この頃ぐらいからプロにはなれないんじゃないかと思い始めた。
そして新人戦。
予選はずっとベンチで試合に出ることはなかった。
そして怪我をしてチームを外から見ることになった。
同期のみんなが楽しそうにプレーしていて、明治や国士舘に勝って全国大会出場を決めたが、全く喜べず悔しさしかなかった。
全国大会の1週間前に怪我から復帰したがもちろん遠征のメンバーに入れなかった。
YouTubeで試合を見る気にもなれなかった。
このまま1年目は終わるんだなと、シーズンオフ気分でリキとソナタと横浜で遊んでいた時、明日の試合出るから来いと連絡が来た。
最高のタイミングでチャンスが巡ってきた。
ここでやるしかないと意気込んで始発で流経まで向かった。
ポジションはまさかの左ウイングバック。
人生で一度もやったことがなかった。
でもがむしゃらにやるしかなかった。
この試合で先制点を取ることができ、チームは6-0で勝って決勝トーナメント進出が決まった。
やっとチームに貢献することができて久しぶりにサッカーが楽しかった。
決勝トーナメントはベンチには入って出ることはできなかったがチームが全国制覇をして物凄く嬉しかった。
1試合しか出ることができなかったが、自分の中ではこの1試合は相当大きかった。
来年への自信になったし、最高の締めくくりができたと思った。
大学2年目。
初日の練習でAチームの練習時間に行くと、イチマルに「お前Aのグループ外されてたよ」と言われ、増田さんに聞きに行ったらBチームからのスタートだった。
今年はやってやろうという思いが初日にしてへし折られた。
ここで腐ったら終わりだと思って、必死に練習したがこの時期はとても辛かった。
しかし、Bチームでは新たに西ケ谷さんが来てくれて、サッカーについてとても考えさせられた。
練習で体より頭の方が疲れる。
初めての感覚だった。
この時期があって本当に良かったと思うし、選手としての引き出しが増えたと思う。
そしてシーズンが始まる時、スタッフが誰をどのリーグに登録するか話していた。
Bチームのみんなは社会人リーグに登録された。
社会人リーグに登録されると大学生のリーグには出ることができず、ここで社会人に登録されれば1年間上のカテゴリーに上がれない。
ここで源さんが「弘和は社会人リーグに登録するな。Iリーグで出す」と言ってくれて、A2へ上げてくれた。
この言葉がなければ、自分はもうAチームでプレーすることが無かったかもしれない。
この時の源さんには本当に感謝している。
Iリーグでは全試合に出ることができた。
途中からはずっとサイドバックだったし、1試合で3つのポジションをやらされることもあったが、Iリーグが大学サッカーで一番楽しかったかもしれない。
夏にはAチームにまた戻ることができて、県リーグにいきなりスタメンで使ってもらえた。
また、なぜか左サイドバックだったが初めてトップチームの公式戦に出ることができて嬉しかった。
充実した1年だったと思う。
大学3年目。
この年は最初からAチームにいることができて、天皇杯もスタメンで使ってもらうことができた。
しかしリーグ戦が始まるとずっとベンチで、全く試合に出られなかった。
アミノ前の何試合かとアミノはスタメンで出ることができたが、1年間を通してほとんどベンチだった。
そしてリーグ最終節とプレーオフはベンチも外されてしまった。
来年2部でやるためにも絶対昇格して欲しかったし、仲間たちは最高の試合をしたと思う。
しかし順天に引き分けて昇格することができなかった。
スタンドで試合を見ていて何もできない自分が悔しかった。
帰りに1人で泣きながら帰ったのを覚えている。
この1年間は悔しいことばっかりだった。
最後の1年間は同じ思いはしたくないと、最後は昇格して笑って終わりたいと心から思った。
大学4年目。
プレシーズンはずっとスタメンで使ってもらっていて、今年はチームの中心で絶対昇格させたいと思っていた。
しかし、リーグ戦開幕前の最後の練習試合で膝を怪我してしまった。
1ヶ月以上離脱することになった。
最悪なスタートだったがシーズンは長いしまだまだ巻き返せると思っていた。
しかし、復帰してからは思うように体が動かず、判断やポジショニングなど全てが良くなかった。
復帰したらすぐに試合に絡めると思っていたが、全く思い通りに行かず何度も気持ちが切れそうになった。
アミノ前のチームは1位だったし自分は必要ないんじゃないかとも思った。
アミノの初戦でやっとスタメンで使ってもらうことができた。
あまり思い通りのプレーができなかったが、試合に出られることが嬉しかった。
アミノ後はリーグ戦でもスタメンで使ってもらえることができたし、少しずつ思い通りにプレーできることが増えていった。
そして、夏休みの中断期間も練習試合にずっとスタメンで出してもらえていた。
後半戦はやっとチームに貢献できると思っていた。
しかし、リーグ再開の1週間前に今度は足首を怪我してしまった。
怪我をするのは自分のせいだが本当についていない1年だった。
そして、試合に出られないままチームは6試合で5敗した。
優勝争いをしていたのに、いきなりプレーオフに出られるかギリギリの順位になった。
ここで、チームでミーティングを開くことになった。
みんながチームを良くするために発言する中、自分は全く発言することができなかった。
この時は試合に全く絡めていない自分にイライラしていたし、チームのことより自分のことで頭がいっぱいだった。
アキやタケロウ、カンタは発言しなかったことをいじってくるが、発言する気にはなれなかった。
このミーティングの次の試合からスタメンで使ってもらうことができた。
これが最後のチャンスだと思い必死に闘った。
この試合から4試合連続スタメンで使ってもらえて、チームも無失点で4連勝して3位でのプレーオフ進出を決めた。
そしてプレーオフ。
去年と同じ思いはしたくなかったし、後輩に同じ思いはさせたくなかった。
しかし、結果は1-1でまた昇格をすることができなかった。
試合に出させてもらったのに勝たせることができなくて本当に申し訳なかった。
大事な試合に負け続けた4年間だった。
最後の試合に勝てなかったことは悔しいが、この4年間に全く後悔はない。
練習で手を抜いたことはないし、最後の最後までやりきれたと思う。
最高に楽しい4年間だった。
サッカーを17年間やってきてもしかしたら楽しかったことより辛かったことの方が多かったかもしれない。
でも勝った時や点の入った時のあの喜びは他の何にも表すことができないし、サッカーでしか味わうことができなかった。
サッカーと出会うことができて、長い間続けることができて本当に良かった。
幸せな17年間だった。
後輩へ
また来年も3部で戦うことになって本当に申し訳ない。
相当悔しかったと思う。
3年生は後輩に同じ思いをさせないために絶対に昇格させてほしい。
みんななら必ず昇格できる。
そして、最後までやり切ってほしい。
試合に出られる出られない、勝つ負ける色々あるが結果はどうであれ最後までやり切れば後悔なく終われると思う。
応援しています。頑張れ!
同期へ
同期は我の強い癖のあるやつばっかりだった。
真面目そうにしているエイトやカンタ、タケロウも変わってるし俺が一番まともだった。
でもみんな変なやつすぎて4年間最高に楽しかった。
周りに真剣にサッカーに取り組む仲間がいたから最後まで頑張ることができた。
自分はここでサッカーをやめるけど、プロになった仲間たち、サッカーを続ける仲間たちは本当に頑張ってほしい。
これから働く人も新しい世界でまた頑張ろう!
頑張っているみんなの近況報告聞きたいです。
最後に両親へ
お父さんは小さい時から厳しく育ててくれた。
試合でいいプレーができないと帰りの車から途中で下ろされて家まで走って帰らされることもあったし、朝早くに起こされて階段ダッシュに連れて行かれたことも何回もあった。
でも、この時があったからずっと体力には自信があったし、本当に感謝している。
最後の試合が終わって家に帰ると今までよく頑張ったなと頭を撫でてくれた。
高校で寮に入ることも、大学でサッカーを続けることも反対していたがなんだかんだずっと応援してくれていたのかなと思う。
お母さんはずっと近くで支えてくれていた。
小中の時は仕事終わりで疲れているのにトレセンの送り迎えをしてくれて、高校では毎日LINEで気にかけてくれていた。
大学でも毎朝5時前から朝ごはんを作ってくれていた。
本当にありがとう。
ラスト数ヶ月は親に試合をしているところを見せてあげたい、それが原動力でどんな練習も頑張れました。
ありがとう。
これから少しでも恩返しできるように頑張ります!
拙い文章でしたが最後まで読んでいただきありがとうございました。
引き続き専修大学体育会サッカー部の可愛い後輩たちの応援をよろしくお願いします!